大判例

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徳島地方裁判所 昭和40年(わ)239号 判決

主文

被告人は無罪。

理由

第一公訴事実とその認定

本件公訴事実は、

「被告人は、徳島郵便局に勤務する郵政事務官であるが、昭和四〇年七月四日施行の参議院議員通常選挙に際し、徳島地方区から立候補した日本共産党公認候補武知寿ならびに全国区から立候補した日本共産党公認候補須藤五郎を支持する目的で、同年六月二一日午後八時頃から午後一〇時頃までの間、徳島県名西郡神山町下分字今井九四番地、下分公民館において両候補者の個人演説会が開催された際司会を行ない、約三〇名の聴衆に対し両候補者に投票されたい旨の演説をなし、もつて両候補者に投票するよう勧誘運動をして政治的行為をしたものである。」

というものであり、被告人の当公判廷における供述および検察官提出の関係証拠によれば右事実を認めるに十分であつて、法律に照らすと、被告人の右行為は、国家公務員法(以下、単に国公法という。)第一〇二条第一項により禁止されている人事院規則一四―七(以下人規一四―七という。)第五項第一号、第六項第八号所定の政治的行為にあたり、国公法第一一〇条第一項第一九号の罰条に該当していることになる。

第二弁護人の公訴棄却の申立てについて。

一申立ての要旨

弁護人の右申立ての要旨は、

「本件公訴提起は、山奥の寒村で共産党の個人演説会が開催された際、被告人が単なる司会行為をしたことに対してなされたものである。しかも、被告人は、国家公務員であるとはいつても、行政過程には関与しておらず、業務の内容が細目まで具体的に定められているため、機械的労務を提供するにすぎないところの現業の非管理職であるうえ、本件司会行為は、勤務時間外に職務とはなんらかかわりあいもなく、一般市民と全く異ならない状況下で、一人の市民として行なつたものにすぎない。のみならず、本件の罰条である国公法第一〇二条第一項、第一一〇条第一項第一九号、人規一四―七は、その制定当初から、とりわけ、言論、表現の自由(政治活動の自由)との関係において、合憲性に疑問が投げかけられ、学界においては、むしろ違憲と断ずる見解が主流を占めていたところである。かかる事情を考慮すれば、本件は当然起訴を猶予すべきものであつたといわなければならない。にもかかわらず、あえて検察官が本件につき公訴を提起したのは、被告人が共産党応援の司会行為をしたからだとしか考えられず、それは明らかに共産党に対する、そして共産党の政治活動に対する弾圧を目的としたものにほかならないのであり、しかも、その前提として、投票日前に捜査を開始して事実上選挙民の自由な意志に影響を与え、かつ、特に合理的な必要性もないのに演説会場に参集した聴衆のほとんど全員をくまなく取り調べて、選挙に権力をもつて不当な介入をしているうえ、すでに傍証をほぼ完全に固めてもはやその必要もないのに任意出頭の機会を一度だに与えることなくいきなり被告人を逮捕し、直ちにいわゆる求令状起訴を行ない、被告人を不当に拘束し、かつ、これを継続せんとしてその人権を侵害するなど、他の事案と比較して著しく偏頗な取り扱いをしている。したがつて、本件公訴提起は、公訴権の濫用として、憲法第一四条、第三一条、刑事訴訟法第一条、第二四八条、刑事訴訟規則第一条第二項等に反する違憲、違法な無効行為であるというべきところ、公訴権の濫用のないことも訴訟条件の一つであるから、これを欠いている以上、刑事訴訟法第三三八条第四号に則り公訴棄却の判決をなすべきである。」

というのである。

二当裁判所の判断

なるほど、関係証拠によれば、本件演説会が行なわれた場所は、徳島県内でもかなり奥地に属する山村であり、被告人のした演説も、本格的ないわゆる応援弁士としてというより、司会者として司会行為に付随して行なわれた程度であつたと認められる。また、被告人は、もと徳島郵便局郵便課外務係(後に集配課と改称)員として、郵便配達の業務に従事していたもので、本件当時は、同局調査課第一調査係に配属された郵政事務官として、徳島県下の各郵便局においてなされた振替貯金、年金恩給、遺族年金、国民年金等についての出納事務処理に関する証拠書を点検して計算や証拠事項の不備過誤の有無を調査し、不備等があれば、関係郵便局に対しその是正補完を促す等の業務に従事する非管理職の現業職員であつたものであり、その業務は、郵政省制定の郵便振替規則、同取扱規程、計算規程等の各種法規および松山郵政局作成の証拠書点検カードなるものなどによつて規制されておつて、全く行政的な裁量の余地のない機械的労務にすぎないものであるうえ、右演説は、勤務時間外にその職務を利用することなく行なわれたものであることも、証拠上明らかである。そして、本件の罰条につき違憲の疑いがもたれていたことなども、弁護人主張のとおりである。かかる事情は、後述のごとき本件罰条(政治活動の禁止、制限)の立法趣旨に照らすとき、それ自体、本件を起訴猶予にするための相当重要な情状であるとみられなくはないものである。また、証拠によると、本件捜査の過程において入手方法の明確でない被告人の写真多数を用意して、被告人特定の用に供し、弁護人主張のとおり、聴衆のほとんど全員を取り調べ、なお、その他の証拠方法も確保していることが窺われるのであるが、加えるのに、警察において、任意出頭を求めることもせず、にわかに被告人を逮捕しているうえ、送致を受けた検察官において、直ちに「求令状」の意見を付して公訴提起に及んでいる(もつとも、被告人は、警察においてはもとより、検察官の取り調べに対しても、いわゆる黙秘権を行使していることが窺われるので、被告人につき詳細な取り調べを行なうことは不可能であつたわけであろうが、それにもかかわらず公訴を提起していることは、本件公訴提起についてもはや被告人自身に対する取り調べを必要としなかつた証左でもあろう。)ことは、任意捜査を原則とする刑事訴訟法の建前からいつて、妥当を欠く措置であつたといえる。以上のような各般の事情にかんがみれば、被告人および弁護人が、本件公訴提起をもつて、他の事案との比較において偏頗であると見、或いは、共産党自体ないしその政治活動に対する弾圧目的に立脚したものとなすことは、あながち強弁であるとして直ちに排斥できないところであろう。そして、当裁判所も、公訴提起が違憲或いは高度に違法であり、公訴権の濫用にわたるときは、弁護人主張のとおり、公訴棄却の判決をなすべきものと考える。

しかしながら、具体的事例においては、概括的に公訴提起の当不当の判定まではできても、進んでその違憲性ないしは高度の違法性を断ずることはかなり困難であつて、これを正確に判定するためには、実証的に検察権の運用にまで相当深く立ち入り、裁判所が検察官の上級官庁的な立場に立つて審査しなければならないのであるが、そうなると、起訴便宜主義の運用を検察官の専権に属せしめ、その自由裁量に委ねている法の原則にもとり、検察権能を不当に侵すおそれが多分にある。裁判所が、人権の侵害ないしは法の侵害に対して能う限りの救済、是正を施こすべきことは当然であるけれども、それにもおのずから制度上の限界があることはやむを得ないところである。したがつて、当裁判所としては、前記のような検察権の運用への立ち入りは極力避けるべきであるから、結局、これに立ち入ることなく、当該公訴事実そのものの実体的審理を通じ、そこにあらわれた諸種の資料を総合勘案した結果から、明白に公訴提起行為の違憲性ないしは高度の違法性が認定できる場合には公訴棄却の判決をなすべきであるが、そうでなければこれをなし得ず、量刑上の考慮その他可能な方法による配慮をするよりほかないものと考える。

いま、この見地から、あらためて弁護人の前記申立てについて考えてみるに、まず、検察官は、(一)被告人は、徳島郵便局調査課が回覧した、本件選挙にあたり国公法違反となる行為を厳につつしむよう注意した記事を掲載してある郵政公報を閲覧して、これを十分認識しながら、あえて本件所為に及んだこと、(二)被告人は、予め、神山町役場で下分公民館付近居住者の住民票を閲覧したうえ本件演説会開催案内などのためのはがき約一〇〇枚の宛名書きをし、かつ、演説会当日会場付近を宣伝カーに乗車して演説会開催をふれるなどして、計画的に本件所為に及んでいること、(三)被告人は、本件会場で、演説をしただけでなく、「ベトナム問題の正しい解決とは何か。」ほか四種類の日本共産党中央委員会発行の文書を販売したこと等を情状として強調する。そして、これらの事情は証拠上否定できないものであるところ、それは、もし被告人の本件所為が罪となるとした場合(ここではこれが議論の前提となる。)、犯情的にみて決して芳しいものとはいえない性質のものというほかなく、これらの点をとらえて本件につき公訴を提起したことは、検察運営上のいわば常識的な事件処理として、極端に異常異例の行為というに足りない。また、批判の余地があり、かつ本件罰条につき、本件と事案、争点をやや異にするところがあるとはいうものの、これを合憲とする最高裁判所の判例があつたこと(昭和三三年三月一二日判決刑集一二巻第三号五〇一頁、同年四月一六日判決刑集一二巻六号九四二頁、同年五月一日判決刑集一二巻七号一、二七二頁)も事実であるところ、法曹実務家が判例をよりどころとして事件処理を行なうのは一般的な傾向であるから、その意味においても、本件公訴提起行為自体が常軌を逸したものとは断じ難い。このようにみてみると、本件公訴提起行為およびその前提たる捜査方法等の当否につき疑義なしとしないところがあることは前記のとおりであるが、未だそれが明白に違憲ないし高度に違法であるとは断定できないといわなければならない。

したがつて、結局、弁護人の前記申立ては採用することができない。

第三本件罰条の違憲性について。

一問題の所在

弁護人は、本件の罰条である国公法第一〇二条第一項、第一一〇条第一項第一九号、人規一四―七は違憲無効であるから、被告人は無罪である旨主張し、その主張する違憲論はかなり多岐にわたるが、とりわけ、右法令が、不必要、不合理に政治的行為を禁止、制限して国民の基本的人権たる表現の自由を侵害するものであり、しかもこれの違反に対し刑罰をもつて臨んでいる点の過程において、憲法第一二条、第三一条に違反する、というところが重要である。以下、この点について検討する。

二国公法の政治活動規制の内容とその制定動機経過等

国公法第一〇二条第一項は、「職員は、……選挙権の行使を除く外、人事院規則で定める政治的行為をしてはならない。」と規定し、これを受けた人規一四―七は、政治的目的として八項目、政治的行為として一七項目をそれぞれ掲げ、その組み合せにより、きわめて広汎にわたつて政治的行為を禁止、制限することにしておるが、この禁止、制限の規定は、一般職に属する職員のすべてに対し、かつ、極く一部を除き勤務時間外に行なう場合においても適用されることになつているものである。そして、国公法第一一〇条第一項第一九号は、右の禁止、制限に違反した場合につき、同法第八二条による懲戒処分をなすに止まることなく、三年以下の懲役または一〇万円以下の罰金に処する旨規定している。

このように、一般職の国家公務員については、その政治活動がきびしく規制されているのであるが、これは、昭和二三年法律第二二二号による国公法改正によつてとられた措置であるところ、その改正前の国公法第一〇二条第一項は、単に「職員は、政党又は政治的目的のために、寄附金その他の利益を求め、若しくは受領し、又は何らの方法を以てするを問わず、これらの行為に関与してならない。」と規定していたに止まるものであつたから、右の改正は公務員に対する政治活動制限の飛躍的な拡大、強化であることが明らかである。

そして、右の改正は、当時、インフレーションの下で国民が困窮するなどきびしい社会事情を反映して、労務組合運動が活発を極めていたが、就中、官公庁労動組合が組織力、活動力において最強力であり遂には強度の反的政府政治活動をなすに至つたことに対処すべく、いわゆるマッカーサー書簡(昭和二三年七月二二日)を契機として、国会の内外で強い批判を受けながらも、連合国総司令部からの強い要求により、国会による独自の審議を尽すことの許されない状況下になされたものである。また、「ポッダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件(昭和二〇年勅令五四二号)は、昭和二七年、日米平和条約の発効によりわが国が独立性を回復した際、その廃止法(同年法律八一号)により廃止され、同勅令に基づき制定されたいわゆるポッダム政令は、別に法律で廃止または存続に関する措置がなされない場合においては、右廃止法施行の日から一八〇日間に限り、法律としての効力をもたせるという、独立にふさわしい民主的な措置が講ぜられたのであるが、右の改正は、その契機においてポッタム政令の場合と実質的に異ならないものであつたにもかかわらず、それが「法律」の形式におけるものであり、かつ、これを受けた人規一四―七もポッダム政令の形式をもつていなかつたため、なんら新たな見地からの検討が加えられる機会もなくして現在に至つているものである(以上、浅井清、中山和久の各供述速記録写等)。しかして、このような事情は、政治活動約の必要性ないしその度合いについての国会および人事院の裁量の正当さ、適正さにかなりの疑問を投じるものであり、また、右改正当時とは状況が一変している現在、なお、きびしい制約を維持すべきものかを深く反省せしめる理由となるものであつて、憲法問題のうえでも決して軽視できないことである。

三最高裁判所判決の合憲判断の根拠等

国公法が前記のように公務員に対して政治活動をきびしく制約している理由ないしその必要性について、前掲最高裁判所昭和三三年三月一二日判決は、「およそ、公務員は全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者でないことは、憲法一五条の規定するところであり、また行政の運営は政治にかかわりなく、法規の下において民主的且つ能率的に行なわれるべきものであるところ、国家公務員法の適用を受ける一般職に属する公務員は、国の行政の運営を担任することを職務とする公務員であるから、その職務の遂行にあたつては厳に政治的中正の立場を堅持し、いやしくも一部の階級若しくは一派の政党又は政治団体に偏することを許されないものであつて、かくしてはじめて、一般職に属する公務員が憲法一五条にいう全体の奉仕者である所以も全うせられ、また政治にかかわりなく法規の下において民主的且つ能率的に運営せらるべき行政の継続性と安定性も確保されうるものといわなければならない。これが即ち、国家公務員法一〇二条が一般職に属する公務員について、とくに一党一派に偏するおそれのある政治活動を制限することとした理由であ」る、としている。国公法第一〇二条の立法趣旨。立法目的は、正に右のとおりであろう。

そして、右判決および前掲最高裁判所昭和三三年四月一六日判決は、公務員の政治活動の制限には右のごとき合理的根拠があり公共の福祉の要請にも適合するものであるとして、国公法第一〇二条は憲法第一四条に反しない旨判示し、また、前掲最高裁判所昭和三三年五月一日判決は、人規一四―七につき、右両判決の趣旨に照らし実質的に違法、違憲の点および国公法の規定により委任された範囲を逸脱した点は認められない、としている。

しかし、公務員の政治活動の制限についての憲法問題の核心は、公務員も国民の一人として享有しているところの憲法第二一条の保障する表現の自由との関係如何にあるというべきであるが、以上の各最高裁判所判決は、この点について具体的に判断しておらず、公務員の地位、立場、政治活動の行なわれた時間、場所等に諸要素を分析したうえでの判断を加えているわけでもない。したがつて、右各判決に対しても、この問題をめぐる個別的、具体的な見地からの検討の余地が残されていると考えられる。

四わが国の他の公務員関係法規等との対比

(一)  前記国公法改正の約二年後である昭和二五年一二月に制定された地方公務員法は、国公法とほぼ同様の政治的行為の制限を規定しているが(第三六条)、一定のもの(本件のごとき選挙運動行為を含む。)については、当該公務員の属する地方公共団体の区域外においてはこれを許し、その区域内においてする場合に限つて、これを禁止または制限するという規制に止めており(同条第二項但書)、しかも、その禁止、制限規定の違反に対して刑事罰則を設けていない。

右のように地方公務員法において比較的規制がゆるやかであることは、右の制定時期からみて、わが国の独立の機運が高まり連合国総司令部からの影響力が弱まり国会がかなり自主的に審議できたからであろうと推認できるうえ、国家公務員についても、一律広汎な政治活動の規制をすることなく、ある程度場合を分つて規制をやわらげてよいのでないか、或いは、違反に対して刑罰を科するまでの必要はないのではないか、ということを強く示唆するものといえよう。

(二)  被告人の従事している郵便事業(郵政省)のほか、国有林野の官林事業(農林省)、印刷事業(大蔵省)、造幣事業(大蔵省)、アルコール専売事業(通商産業省)などのいわゆる五現業の職員については、その労働関係において、昭和二七年までは他の非現業職員と同様国公法の規制を受け団体交渉権が認められていなかつたが、同年以後は法改正により右規制から脱して公共企業体等労働関係法の適用を受けるようになり、もともと国公法の適用を受けていなかつた国鉄、専売などの公共企業体と同様の労働関係に立つに至つた。これは、現業公務員が本来の行政事務に従事するものではなく、経済的行為のために肉体的労働ないし機械的労働を業務の主内容とすることなどを考慮した結果であると思われ、現に右法改正の際の国会における提案理由の説明にも「従来占領下においては、国家公務員は、……すべて団体交渉権を認められていなかつたものであります。このことは、公務員が国民全体に対する奉仕者たることから当然やむを得ないことではあつたのでありますが、公務員のうちでも、郵政その他の現業公務員につきましては、その業務の性格、実態が一般の行政事務とは著しく相異つたし、むしろ、国鉄等の公共企業体に近い点もありますので、これらについては、例外的に団体交渉権を認めることと致したのであります。」と述べられている(昭和二七年五月一四日衆議院労働委員会議録)。

このことは、少なくとも現業公務員については、さらに一歩進んで、労働基本権と密接な関係を有する政治活動を認めて然るべきではなかろうかという、いわば人権の尊重を徹底するための立法の方向づけを与えるものであるといえようし、逆にえば、むしろ、現行国公法第一〇二条第一項が現業公務員についてまで政治活動を禁止、制限しているのが著しく不当なことを思わせるものであろう。

(三)  昭和三九年九月に発表された臨時行政調査会の「公務員に関する改革意見」は、改善対策として、「現行制度は、一部の教育公務員を除くすべての公務員に対し、選挙権の行使以外の政治的行為を広範にわたつて制限している。公務員は、公務に従事するため、政治的中立性を維持しなければならない特殊性を持つているが、また、一方においては公務員も国民の一人であり、その政治的権利の行使はできるだけ保障されなければならない。この観点から、たとえば政策決定に密着した職務にあるもの、あるいは直接公権力の行使にあたるもの等については現行法制を保持しつつも、単純労務的な職務に必事するものについては、その規制を必要最少限度にとどめる等、弾力的な連用がはかられるべきである。」と述べ、また、ILO第一〇五号条約(強制労働の廃止に関する条約)第一条は、「この条約を批准する国際労働機関の各加盟国は、次に掲げる……制裁……としてすべての種類の強制労働を禁止し、かつ、これを利用しないことを約束する。(a)……政治的な見解若しくは既存の政治的、社会的若しくは経済的制度に思想的に反対する見解をいただき、若しくは発表することに対する制裁、(b)……」と規定しているが、わが国政府は、右条約の語句の一部につきILOと解上上の打合せをする必要があるなどの理由で未批准であるけれども、これを批准する方向で検討を進める旨国会において表明しているところである。

これらの事情は、公務員の政治活動の一律的な制限自体が不合理であること或いはこれに刑罰を科することが不当であることを示唆し、その是正を図るべきことが現下の急務であることを意味するものであろう。

五公務員の政治活動に関する外国の法制との対比

国公法第一〇二条第一項の母法は、アメリカ連邦法のハッチ政治活動法第九条であり(同条は、連邦公務員に対し、選挙権および政治的問題ならびに侯補者について意見を表明する権利は認めるが、選挙に干渉し、または選挙の結果に影響力を与える目的のために、職務上の権限または影響力を利用すること、或いは、政治的管理業務または選挙運動において積極的な役割を演じることを禁止していた。)、また、人規一四―七の六項(政治的行為の定義)も、右ハッチ法の規定や、同法で法律化された従来の連邦人事委員会の規則に做つて作られたものと思われる。しかし、ハッチ法は、政治活動の禁止違反につき罷免の制裁を定めてはいるけれども(この制裁も、連邦人事委員会の判定で、より軽微なものにすることができることとされていた。)、刑事罰則を規定していない。また、アメリカの現行連邦刑法には、一定の公務員が政治的賦課金を求め受領し、或いはこれらに関与することなどを禁止しこれに刑罰をもつて臨んでいるのであるが(アメリカ合衆国法典一八篇六〇二条)、これは、政治的行為の中でもいわば破れん恥的要素のあるものについてのことであるとみられる。

そうして、イギリスにおいては、公務員を三つのグループに分け、政治的、行政的政策に最も近接した典型的な公務員といわれる上級公務員に対しては投票、政党加入を除くすべての政治活動を禁止しているが、中級公務員に対しては国会議員に立候補することを除くあらゆる政治活動を許し、全体の六割をこえる現業公務員を含む下級公務員に対してはすべて公職への立候補その他あらゆる種類の政冶活動を認めているところである。また、前掲最高裁判所判決などが公務員の政治活動制約の根拠としてあげている「全体の奉行者」なる概念は、ドイツのワイマール憲法に由来するもので、その第一三〇条第一項は、「官吏は全体の奉仕者であつて、一党派の奉仕者ではない。」と規定していたが、同時に同条第二項は、「すべての官吏は政治上の意見の自由および結社の自由を有する。」としていたのであつて、現在西ドイツにおいても、連邦官吏法で公務員が全体の奉仕者であるとされながら同法第五三条は「官吏は、政治活動をするに当つては、その全体に対する地位とその官職の諸義務の顧慮から生ずる制約と抑制を守らなければならない。」と規定して基準づけをしているが、実質的には、ワイマール憲法時代と同様に官吏の政治的自由は保障されているところである。フランス、イタリアにおいてもほぼ同様である(以上、今村成和、中山和久の各供述速記録写、芦部信喜の鑑定書写等)。

このように、主要な民主主義国家では、いずれも公務員の政治活動の自由に対する制限はゆるやかなものであり、わが国のように刑罰まで科する立法は全く異例のことであるということができる。その原因は、専ら、前記第二の三のように、国公法第一〇二条、第一一〇条第一項第一九号などが極めて特殊な要因によつて生まれたところにあることは否定し難いであろう。

以上のようにみてみると、公務員の政治活動を広汎かつ一律に規制しこれに刑罰まで科することの必要性について、多大の疑義をさしはさまざるを得ない。

六裁判所が憲法判断をするにつきとるべき態度

最高裁判所昭和四〇年七月一四日判決(民集一九巻五号一、一九八頁)は、勤労者の団結権等に対する「制限の程度は、勤労者の団結権等を尊重すべき必要と公共の福祉を確保する必要とを比較考量し、両者が適正な均衡を保つことを目的として決定されるべきであるが、このような目的の下に立法がなされる場合において、具体的に制限の程度を決定することは立法府の裁量権に属するというべく、その制限の程度がいちじるしく右の適正な均衡を破り、明らかに不合理であつて、立法府がその裁量権の範囲を逸脱したと認められるものでない限り、その判断は、合憲、適法なものと解するのが相当である。」と判示している(なお、前記ハッチ法の規制が表現の自由を侵す違憲のものであるとして争われたいわゆるミッチェル事件において、これを排斥し合憲と判定したアメリカ連邦最高裁判所多数意見も、規制の度合如何についての一次的判断権は議会にあり、その判断は大いに尊重されるべき旨を表明している―芦部信喜の鑑定書写等)。

もとより、このような論理ないし憲法訴訟に対する態度は一応尊重されるべきであり、法律は能う限り合憲であるように解釈されるべきが原則であろう。そして、立法府が法律を制定した理由、それによつて達成しようとしている目的を、あらゆる角度から検討考察して、その正当性を見出し、法律の実効を確保するように努めることも、裁判所の職責であると思料される。しかし、裁判所が、そのような面での努力をはらうあまり、憲法の解釈連用の問題において、殊に立法府に対する自主独立性を発動し立法府の過誤による国民の基本的人権侵害を除去防止しようとするいわゆる違憲審査制の趣旨を見失い、これに背馳するようなとこがあつてはならないことも、裁判所の職責上当然というべきである。

ここにおいて、最高裁判所昭和四一年一〇月二六日判決(刑集二〇巻八号九〇一頁)が、「労働基本権は、たんに私企業の労働者だけについて保障されるのではなく、公共企業体の職員はもとよりのこと、国家公務員や地方公務員も、憲法二八条にいう勤労者にほかならない以上、原則的には、その保障を受けるべきものと解される。『公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない』とする憲法一五条を根拠として、公務員に対して右の労働基本権をすべて否定するようなことは許されない。」などと判示していることに注目すべきである。この判決は、労働基本権の制約について、公務員の「全体の奉仕者」性という抽象的説示や、「公共の福祉」という漠然とした概念に頼ることを極力避けるべきことを示したものであつて、他の基本的人権の制約の当否についても、実質的観点から判定すべき方向づけを示唆したものというべきであろう。

裁判所は、以上のような諸点に十分意を配り、本件についていえば、国家公務員に対し基本的人権たる政治活動の自由をどの程度制約できるかについての一次的な判断権が国会およびその受任者たる人事院にありこれを尊重すべきであるにしても、右の制約が、その目的とするところに照らし、当然そうであるべき必要最少限度の範囲に止まつておるものかどうかを、個別的、具体的な検討のもとに判定し、もつて基本的人権の擁護を図るべきであると考える。

七本件についての具体的判断―違憲の結論

(一)  これまでにみてきたような国公法および人規一四―七の制定経過、その後における事情の変化、法制の推移およびその趨勢、外国における規制の程度等、各般の事情に照らすと、一般職の国家公務員すべてに対し、一律かつ広汎にわたつて政治活動を禁止、制限したうえ、その違反に対し刑罰まで科することとしている国公法第一〇二条第一項、第一一〇条第一項第一九号、人規一四―七の規制は、特に憲法第二一条、第三一条の関係で許されないのではないか、というきわめて大きな疑義を生じる。すでに認定したように、被告人が非管理職の現業公務員であり、その職務も全く行政的な裁量の余地のない機械的労務にすぎず、本件行為も、勤務時間外にその職務ないし職務上の施設を利用することなく、単に司会行為に付随して演説しただけであることを思えば、なおさらのことである。一層の検討を必要とする所以である。

そもそも、政治活動を行なう国民の権利は憲法第二一条の保障する表現の自由に属するものであるが、表現の自由は、基本的人権の中でも最も重要な権利であるから、最大限の尊重がなされなければならない。もとより、表現の自由も絶対無制限なものではなく、すでに述べたように、全体の奉仕者である所以を全うし、かつ、政治にかかわりなく法規の下で民主的、能率的に運営されるべき行政の継続性と安定性を確保する目的のため、公務員がある程度の制約に服すべきことは、一般論としてやむを得ないことであろう。しかし、その制約の程度は、右の目的を達するための必要最少限度の域に止めなければならないことも、公務員が一面市民として政治的自由を有すべきことから、これまた当然のことであつて、その程度如何の判断は、具体的な事柄を分析することなしに、ただ公務員の全体にわたり、極めて一般的な限界基準にすぎない「全体の奉仕者」であることのみを重視する立場からなすべきではない。やはり具体的、個別的に、職務上の行為と職務外の行為、勤務時間中の行為と勤務時間外の行為を区別し、各後者については自由が原則であるべきこと、或いは、国の政策決定に重要な影響を及ぼす職とそうでない職、権力行使を伴なう職とそうでない職など担当職務の相違に応じ、政治活動の制約にもその程度、範囲に差異を設けることがあつて然るべきこと、さらには、これらに関連して、制限違反に対する制裁にも、刑罰を科するか、懲戒事由たるに止めるかなどの相違を設けるのが相当であること、などを考慮して行なわれなければならないと考える。

そこで、このような見地から考えてみるに、前記イギリスの法制にみられるような政治的、行政的政策に最も近接した上級公務員であるとか、或いは、前記臨時行政調査会の意見にいわれるような国の政策決定に密着した職務を担当する者や直接公権力の行使にあたる者であるとか、その他これらに近い地位にある非現業の公務員については、一部の階級、一派の政党ないしは政治団体に偏した活動を行なうことにより、職務遂行上の中正、公正さを失なわされ、行政の継続性、安定性および能率を阻害されるおそれが多分にあたるといえるであろう。また、現業、非現業を問わず、右以外の職員であつても、国の施設を利用したり、公務員であることから生ずる各種の影響力を利用したりして政治活動を行ない、或いは勤務時間中にこれを行なうなどの場合についても、同様のことがいえるであろう。したがつて、これらの場合には、政治活動の禁止、制限は合理的理由があり、合憲というべきである。

しかしながら、全く行政的な裁量の余地がなく機械的労務を提供するにすぎない非管理職の現業公務員が政治活動をした場合、それが行政事務の継続性、安定性および能率などに悪影響を及ぼす度合いは極く低いものと考えられるのであつて、殊に、本件のごとく、勤務時間外にその職務ないし職務上の施設を利用することなく、単に司会行為に付随してした演説にすぎないような場合、前記のように懸念される弊害は到底考えられないところである。かかる行為にまで禁止の規制を加えているのは、前記のとおり、現業公務員が実質的には公共企業体の場合とほとんどかわらない業務に従事しておりながら、その労働関係においてようやく公共企業体と同じ規制内に入つたものの、政治活動については未だ従来のままの規制に甘んじさせられていることからいつても、妥当を欠くものとみざるを得ない。

(二)  のみならず、前記のとおり、国家公務員の政治活動に対する制裁は懲戒処分のみでなく三年以下の懲役または一〇万円以下の罰金を科することになつている点が、この際より重大な問題である。

すでにみたように、主要な民主主義国家では、わが国のように刑罰を科する法制はない。就中、わが国法制の母法たるハッチ法は公務員の政治活動に対する制裁を罷免等のみに止め刑罰を科していない。現行連邦刑法典での規制にもハッチ法の場合と根本的に異なるようなところはない。そして、わが国の情勢は、公務員の政治活動の規制に関し、アメリカの場合以上に強度であるべきことが要請されるほどのものとは到底考えられない。したがつて、懲戒処分に加えて刑罰をも科するようなことは前記のような政治活動規制の法目的に照らし、必要最少限度の範囲をこえている疑いが多分にある。けだし、わが国の場合と実質的な公務員法制上の情勢の相違がみられないアメリカにおいて、懲戒処分のみ止めても法目的を達成できないとは認められないからである。

ところで、いま、他の公務員関係犯罪の刑罰をみてみると、公務員で職権を濫用し人をして義務なきことを行なわしめた場合は二年以下の懲役または禁錮(刑法第一九三条)、収賄犯については三年以下の懲役(刑法第一九七条第一項前段、第一九七条ノ二、第一九七条ノ三第三項、第一九七条ノ四など)、公務員が国民の政治的意見または政治的所属関係によつてこれを差別した場合、或いは公務員が職務上の秘密を漏らした場合については一年以下の懲役または三万円以下の罰金(国公法第一〇九条第八号、第一二号、第二七条、第一〇〇条)などとなつているが、これらの罪質を政治活動の制約についての国公法第一一〇条第一項に規定する罪質と比較してみると、前者は公務員関係の犯罪中破れん恥罪であり、道義的にも最も強く糾弾さるべき犯罪であることは明らかである。

にもかかわらず、後者についてみられるように、一般職の国家公務員全般にわたり、等しく懲戒処分に加えて、前者の場合の刑罰よりも重いまたは同等の三年以下の懲役または一〇万円以下の罰金の刑罰を科することが、前記のような法目的達成のために常に必要不可欠であるとは考えられない。ましてや、被告人のように、全く行政的な裁量の余地がなく機械的労務を提供するにすぎない非管理職の現業公務員が、しかも、本件のごとく、勤務時間外にその職務ないしは職務上の施設を利用することなく単に司会行為に付随して演説をしたにすぎないような場合についてまで三年以下の懲役または一〇万円以下の罰金という刑罰をもつて臨むことは、その行為と著しく均衡を失するものであり、法目的達成のための合理的で必要最少限度の域をはるかにこえるものと断じなければならない。

(三)  したがつて、国公法第一一〇条第一項第一九号は、少なくとも、被告人の本件のごとき行為についてまで右のように重い刑罰を科している限りにおいて、憲法第二一条、第三一条に違反することが明白であり、結局、無効であるといわなければならない。

第四結語

そこで、被告人の本件行為は罪とならないことに帰するから、刑事訴訟法第三三六条により無罪の言渡をすることする。

よつて主文のとおり判決する。

(吉川寛吾 田村承三 山脇正道)

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